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苦学時代を振り返って

私は大正八年二月十二日、北海道士別市に生まれた。
  父・辰次郎は建築業に従事していたが、ケガがもとで若くして他界した。私は長男ではあったが、父の顔すら覚えていない。母・もよは雑貨屋を営みどうにか生計を立てていた。
子供を抱えた母はどれほどたいへんな思いをしたことだろう。九十八歳の生涯を強く生き
た母である。

 昭和六年四月、当時士別市には進学する学校がなかったため、私は愛知県の伯父を頼って愛知県江南市の財団法人滝実業学校甲種商業科(現在、滝高等学校)へ入学した。

 在学中は柔道部に入り体を鍛えた。そのきっかけは、片親だったことと、北海道出身で方言が違っていたことでずいぶん殴られいじめられ、「一度はいじめたやつらを見返してやろう」と自分に誓ったからだ。そして一年間頑張り初段となり、いじめた者共は恐れをなして、それ以来、二度と私と対峙することはなかった。

 私は背は低かったが、背負い投げを得意とし三段を取得するまでとなった。そのころ滝実業は愛知県代表として京都の浜寺で行われた全国大会に出場。惜しくもその大会で優勝した鎮西中学にトーナメントの一回戦で当たり敗れはしたが、自分としては満足のゆく戦いができたと思っている。その後、柔道の段位は四段まで取得した。

 学業のほうでは、簿記、会計、原価計算が主だったが、学校に馴染んで勉強する環境ができたこともあって二年生から卒業するまで、勉学に真剣に取り組み、学年で二番を通した。

 そして、伯父の経営する燃糸工場の配達などを手伝いつつ昭和十一年三月に滝実業を卒業した。

 その後、進学できる学力はあったが、学費が捻出できず、仕方なく、母校滝実業の創設者である滝信四郎氏(故人)の経営する滝兵商店に丁稚として奉公した。しかし長くは続かず、毎夜殴られていた僧長(小僧の長)と配達の荷物の損傷の件で喧嘩となり、夜中に店を飛び出し郷里・士別市に帰った。

 しばらく家業を手伝ったあと、当時、私の郷里である士別市温根別は砂金産出ブームに沸いており、それに魅力を感じて来村していた蜂須賀某氏から「同郷出身の北海道庁の池田清長官(当時北海道庁では知事ではなく長官という役職)を紹介してあげるのでお会いしてこい」と言われ、喜び勇んで長官に面接していただいた。そして学業成績が良かったこともあり雇員として入庁、経済部商工課に配属となり勤務した。給料は三十円、そのころの下宿代が十八円であったことを考えれば決して高くはなかったが、それでも実家への仕送りは欠かさなかった。

その後、池田長官が警視総監として東京に転勤することになり、私は東京で勉強したい旨を告げ上京できるようお願いし、一年三か月勤務した道庁を退職した。

しかし、上京したものの職には就けず、当時枢密院副議長(時の内務大臣を経て枢密院へ)を務めていた潮惠之輔先生の書生となった。そして、昭和十三年四月、中央大学専門部商学科(夜間)へ入学。二、三年生では主席を維持し、現在藤沢市在住の吉澤勇氏と二人特待生として月謝免除の恩典を受け、苦学を続けた。

 十六年三月、専門部を卒業、四月から中央大学商学部に進学した。授業が夜間から昼間に変わったため書生を辞し、生計を立てるべく六月から、神奈川県平塚市立商業学校(夜間部本科)の教諭となった。加えて、実践高等女学校で算盤の教師も務めた。

 この頃、私の授業(簿記、会計、原価計算)を受けた生徒のなかには、税理士、公認会計士になっている方々もいて、お会いして喜びを伝え会い、今日でも文通している。

 何年か前になるが、教え子が私を同窓会に呼んでくれ、熱海で一泊したことを思い出す。
いまだに教え子から手紙や年賀葉書をいただくと、教諭時代が脳裏に浮かんでくる。

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